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詩誌『Poetic Parade(パレード)』

『Poetic Parade(パレード)』原島里枝、帆場蔵人ほか

原島里枝さん、帆場蔵人さんが発行人を務める詩誌『Poetic Parade(パレード)』。他のメンバーは、帛門臣昂(きぬかどおみたか)さん、井上橙子さん、&さん、入間しゅかさん。NEKOさんや彌生亜珠奈さんも制作に携わっている。

巻頭は、メンバーによる連詩「椅子」。ある者は縛り付けるものとして、ある者は休息のものとして、ある者は転げ落ちるものとして、椅子をイメージする。個性が如実として表れる。

以下、各人の詩を1作取り上げていく(敬称略)。

帛門臣昂「窪、夢の野の、の、の」。古の戦乱の世を連想させた。「鹿」の文字のせいだろう。平安時代に起きた「鹿ケ谷事件」が、パッと頭に浮かんだ。後白河法皇による平家打倒の陰謀が露見し、反対に平清盛の勢力が増したとされる事件だ。「古都」や「窪」「盆地」などの言葉も出てくることが、ますます想像力を広げるのを手伝った。だが、「そんな皮相的な連想は北の霧の際に放置せよ」とあるように、本詩を読み解こうとすることを嘲笑われているような心境に陥る。作者自身による朗読がYouTubeにアップされている。なんとリズミカルな詩なのか。「の」のアクセントと速度感が心地いい。もちろん読解することは大事なのかもしれない。しかし、もっと単純に言葉による詩の情景を頭に思い描き、言葉のリズムに身を置いてもいいのではないだろうか。そう抱かせる作品だ。

井上橙子「風に吹かれ」。「風に吹かれて」というと、ボブ・ディランの楽曲の邦題の他に、多数邦楽タイトルとしてもある。しかし、本詩には「て」が付かない。そのことにより、自らが立っている箇所の不安定さを認識させる。「白鷺」と「わたし」は風に吹かれ、長い時間対峙する。いつの間にか、白鷺は姿を消す。そして、わたしも踵を返す。いつでも飛んでいける白鷺、かたや自由ではないわたし。意に解すことなく吹く風は、様々なものを規定し、あるいは超越する存在なのかもしれない。無常観を抱かせる。

&「樹に触れる」。最初と最後の連の段下げや字間が特徴的である。一方で中央の連は、一切改行がない。おそらく視覚的に樹を表現したのだろう。伸びる枝葉、かたやどっしりとした幹。そこに樹が超然と立っていることを示している。だが、樹は優しさを伴って、枝葉を伸ばし、対象や言葉を包み込もうとしている。

原島里枝「水紋」。都心の人波を「友人」と歩く。心が水と重ねられ、「しずく」が落ち、水紋として友人、あるいは人波へと広がってゆく。一個の人間が、この世を去っても、また別の誰かがしずくとして誕生し水紋を広げてゆく。かたや「時間のせせらぎ」も「流れ続けていた」。己が去ったあとにも続く存在の永劫性を感じさせるとともに、一個の存在の虚しさを感じさせる。

入間しゅか「空からタバコが降ってきた」。空からタバコが落ちるという。時にタバコは太陽光であり、希望の光であり、文字通りのタバコでもあるのだろうし、空爆をも連想させる。我々は常に何かに身を晒している、良し悪しに関係なく。「私」は一喜一憂せず、自らの慎ましい人生や生活を守るように「身をかがめて歩く」。

帆場蔵人「千年風化」。風とは心の揺れ、感情であろうか。風は時には強く、時には弱く吹くが、吹かないこともある。風が運ぶ涙は水玉模様を生む。しかし無情にも踏み潰されてゆく。芯を持った者でも打ちのめされ朽ち、積み重なってゆく。日々、人々は終わりを迎えるまで、生を生き、幾年経てば風化してゆく、存在も思いも。

NEKOによる装画は、巻頭詩「椅子」をイメージしている。積み重なった椅子の上に立つ人物は、背を向けている。その意味するところは、「椅子」を読んでみればわかるだろう。

黒で塗られた小口など、造本にも工夫とこだわりが施された詩誌。しろねこ書店ほかで購入可能なので、ぜひ。

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