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小説「黄色い帽子」南田偵一

紅葉の中に、女だけが溶け込もうと、車はゆらゆら進んだ。一人の親爺が、ドラマのワンシーンを真似て、車の前にゆらめいた。黄色い帽子は、後ろの山よりも、眩しい。親爺は笑っていた。車の窓は、ゆるゆると開いた。

「昇仙峡に行かれます?」

俺はただ頷いた。

「近いとこの駐車場は埋まってますよ。あんなですからね」

親爺は前方の山を指した。紅葉黄葉緑葉というより、紅絨毯黄茣蓙緑畳に見える山は、近いようで遠い。

「ここから往復八キロくらいです」
「それを歩け、と」

青い空はブルーシートのように広がっている。

「いいハイキングですよ」

俺はこの女を捨てるのだ。

「あそこだけハゲてる」

石を切り落とされた山肌は、痛々しい。そこは未来永劫、紅葉することはない。
この女の心のたった一箇所を、俺はハゲ山にせんとしている。鮮やかな紅葉にハゲたグレーが際立つ。それくらいの傷を女に与えようとしているのだ。けれど、俺にも当然、跳ね返ってくる、己れの行いが。俺のハゲ山は女のハゲ山の倍となる。

どうやって、あんな高いところから石を切り出したのか。あんなところに良質な石が埋まっていると知りえたのか。何人が死んだのか。親爺の黄色い帽子で、ハゲを隠してやろう。あの親爺は、きっとハゲなんだ。
車はピクとも動かない。親爺が今さら恨めしい。

「さっきのところくらいからの方が綺麗かもしれない」

女が言うように、迫る山はボロを見せ始めた。紅や朱に混じる緑、密度がなく、ところどころハゲている箇所、そのボロをわざわざ見にいくこの車の群れに、ただただ白けた一瞥をくれてやる。俺は女を捨てにいく、紅葉なんぞを見るためじゃない。

俺と女も、手に届く幸せを求めておればよかったのだ。なまじ、不相応な幸せをつかもうとし、その淡さと粗さに、俺は幻滅した。遠くから望んでいた幸せは、親爺の場所で見た紅葉のように、まだ綺麗で、ましなものだった。

「もう別れた方がいい?」

別れたい、ということを、俺に委ねてくる。この女はいつもそうだ。
俺は返事をせず、アクセルをゆるっと踏み込んだ。
昇仙峡に着き、車を停めるまで、二時間を要した。親爺が俺を指差し笑う。だから言ったでしょ。うるせえ、一生言ってろ。

「影絵美術館に行かない?」
女は眠そうな顔で、呆けている。

美術館は暗かった。俺には打ってつけだった。今だ。でも、足は動かない。影絵に混じって、かつての不相応な幸せを追っていた俺と女が笑っている。

「半年、別れてみよう」

隣の女の口は、確かに、そう吐いた。
俺は何も言わずその場から離れた。女から切り出してくれた。胸が込み上げてくる。親爺がヘラヘラ笑う。ほれ、見たことか。

胸が焼けるように熱い。暗闇の中で、俺は口に両手を当て、嗚咽を飲み込んだ。掌はぐしょぐしょに鼻汁と涎が、俺は、それをやたらに拭った。

女は俺を捨てようとしている。なんで捨てるのだ。不相応な幸せでも幸せに違いない。俺を捨てるなよ。俺が捨てるんだ。

一周回って、元に戻ると、女はまだ最初の影絵を眺めていた。

「無理だよ、半年でも別れられない」

俺の口は、胃から白い息を吐き出し、淡々とした言葉をその息に乗せた。

女は、最初の絵だけを観て、もう出よう、と、先を歩いた。俺は女の後ろを従った。

思わず目を閉じた。ブルーシートも絨毯も茣蓙も畳も、俺にはただただ眩しい。

暗闇の中で、女が吐いた言葉を反芻した。女もこの眩しい紅葉を相応しいなどとは、微塵も思っていないのだ。俺たちには、あの暗闇がお似合いなのだ。そこで、ただただ、かつてのように、小さな幸せを追っていればいいのだ。

駐車料金は最初の一時間の千円で済んだ。帰りの道は、まだ空いている。俺はアクセルを、少しだけ強く踏み込んだ。

黄色い帽子が反対側の車線で揺れている。俺は減速し、窓を開けた。

「ここが一番だ」

親爺は意味がわかっていない。けど、笑ってやがる。

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