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第4回「食って寝て本を読む日々」(山﨑修平)

某月某日

ここ数年ほど、ぼんやりと考えているのは「離」という言葉だ。もしかしたらどこかで既に同じようなことを書いたか、言ったかもしれない。離別、離人、離合……、熟語にすると鬱々としてくるが、何も、特定の誰かや、組織から離れたいということではない。というよりはむしろ、近づくために離れるということを考えていた。つまり、対象との距離を生むことによって、空間的な視点を確保し、俯瞰で観られるのではと考えている。ボクシングで言うところの、アウトボクサーとインファイターを自分のなかに両立させるような感覚だろうか。ぼくのなかで、もう一つ「逃」という言葉を大切にしている。ぼくは、どうしてこういう言葉のことを考えているのだろう。一つ浮かぶのは、自己が認識しているものだけで世界が成立していると盲信して描くことの脆さを感じているからだ、と思う。

詩というのは面白いもので、先人の作品を読めば読むほど、自身の書いているものに反映されてくる。あるいはこれを影響と言ってしまって良いのかもしれないけれど、どうもその言い方は情報処理のような気がしてしまう。コーヒーフィルターのように、作品を注ぎ込むことによって濾過した何かを体得しているという言い方が近い。そして、読んで書いて読んで書いてを繰り返すと、だんだん詩のようなものになってくる。このことに、名状し難いものを覚えてしまう。眼前にいくつもの詩のようなものが出来上がってくる。何かに似ていて、けれど何物でもない、詩のようなもの。嫌だなあと思う。金太郎飴のようなこの何かを避けたい、壊したいと思う。あるいはこういう抗い、瞬間的な拒絶の先にあるものを、残したいとも思う。あくまでも瞬間を書き留めたいという欲求だけがあって、製造工場を拵えて一定の品質を生み出すのではない、と。そのためには、離れて逃げることによって、対象と距離を取る必要があるのではないか。いくつもの、詩集の一節を拾い集めてゆくのではなくて、例えば秋の終わりの六義園の落ち葉を観ることに、意味を見出したい。

京都へ祖母の墓参りに。ちょうど紅葉の時期だったので、相国寺の特別参観に立ち寄る。京都では、いつも決まった場所に決まったものを食べにゆくため、定点観測という言葉が浮かぶ。変化してゆく街に、変化しない様式を当てはめてみると、位相のずれから言葉が滲んでくる。東京から離れて良かった、と思い、それでも東京に戻る。新幹線の車内にてロブ=グリエ『消しゴム』(光文社)を読んだり、車窓を観たり、で、寝た。

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