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第1回「食って寝て本を読む日々」(山﨑修平)

某月某日

モンブランが急に食べたくなって、自由が丘まで行く。

東急東横線の渋谷が地上駅だったころ、代官山駅を過ぎてすぐにある鎗ヶ崎(やりがさき)のトンネルは、代官「山」であることを私に感じさせた。次の中目黒駅は、ホームと交わるように目黒川があるから、山から谷へ、この短い一駅の区間で愉しめたのだった。渋谷駅が地下駅となり、並木橋を過ぎた辺りからの急な右カーブも外の景色を窺えないものだから、急行電車に乗るといきなり代官山駅のホームが見えてすぐに中目黒駅に着いてしまう。身構えてないまま、ホームが現れて「あなたのご存知の通り中目黒駅ですよ」と告げられて、平然とドアが開くのを待ち、乗り降りするのは実に奇妙だ。私が、いや正確には私の記憶が、疑わしくなる。いっそ、街がすべて変わってしまえば異なる感情も湧いてくるが、部分的にしか変わっていないものだから、如何ともしがたい。次第にこの奇妙な状況を愉しもうとする私が現れる。

自由が丘デパートの窓すれすれに電車が走る

それにしても不要不急ということばは奇妙だ。もちろん、私に置き換えて考えてみると、モンブランが急に食べたくなって電車に乗って出かけているのだから、不要不急であることは一義的に捉えるならば当てはまりそうだ。だが、こうして文を書き残して活字となっている以上、無為なことではないと信じたい。公衆衛生的な、或いは政治・行政のそれと、人文系に纏わる書くことという営為とのヘゲモニーの綱引きを考えてしまう。詩を書くこと、小説を書くことを考えてみると、十年、二十年単位の読むことの蓄積で成されるものだから、やがて成るであろう鐘乳石のしずくを、不要とか不急であるかどうかは誰も判断のつきようがない。

自由が丘の洋菓子店「モンブラン」は、日本のモンブランの発祥の地らしい。幼い時分より慣れ親しんだ老舗の味は、私の記憶を蘇らせる。この記憶は、過日誰かと過ごしたときの会話のような線ではなく、瞬間を捉えた点である。水泳の息継ぎのようなポイント、この点の記憶がこの店には無数に鏤められている。

記憶が点であるならば、東京という都市は、波のような街だと思う。波に合わせて揺蕩(たゆた)うと、街の方から変化してくれる。私は受け身のままでいい。留まることなく流動的なものに、身を委ねる。そこかしこに記憶の種のようなものを蒔いておけば、私は回遊魚としてひたすら愉しむ。

谷、山、波と、凹凸に指を這わせるように土地の記憶をたどっていく。奇しくも、ヴァージニア・ウルフ『波』(森山恵訳、早川書房、二〇二一年)を読んでいたところだった。ウルフの『波』の、登場人物六人の記憶が紡がれているテクストを、解かずにありのまま受け入れて読む。心地よい瞬間が連続する。

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