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山﨑修平 小説『テーゲベックのきれいな香り』特別インタビュー

詩と小説、何か明確な違いはあるとお考えでしょうか。

何か結論が出たからではなく、現在進行形です。詩を書いていく中で、詩と、小説というものを捉え直したかった。詩と小説は別物ではありますが、言葉を用いるという点において不可分です。書き言葉は、本来視認する情報を浴びるものであって、それと同時に聴覚、つまり「調べ」というものも大切にします。それは当然、詩も小説も同様だと思います。

小説が小説である以上、何かしらの「物語」は内包されています。ただ、作り手と読者の間で、物語に対する差異は生じるでしょう。読者自身が小説の中から、ある物語を生み出すというのでしょうか。ですから、必ずしも書き手がこういう物語です、こういうテーマですと提示する必要はなく、おこがましいとさえ言えるのかもしれません。

読者の方々を信頼するといいますか。こちらが投げたボールを、しっかりキャッチしてくださる。テクスト、あるいは言葉はちゃんと届くものです。

また、「虚構性」「フィクション」ということも小説において語られます。ただ、虚構とは作者側の操作という意味ではありません。そもそも作者が認識している世界、作者のわからない世界にも虚構はあるということです。

例えば、渡り鳥が空を飛んでいるとします。十羽いるとして、そのうちの一羽を渡り鳥だと捉える。あくまでも作者の認識、捉え方、であるに過ぎない。世界を捉えるとき言葉を用いているのですから、それは虚構、フィクションであると考えています。このことは自身の大きなテーマとして考えてきました。

タイトルの「テーゲベックのきれいな香り」はすぐに決まったのですか。

いえ、これはもう悩みました。私小説として断定的に読まれてしまう恐れがありますから、あまりそういう雰囲気の題名にしたくはありませんでした。

「きれいな香り」という表現は変わっているかもしれません。「香り」に対して「きれいな」という形容詞は一般的には使わないでしょうから。

編注:例えば、本書27〜28ページには「テーゲベック」について、こう書かれている。

テーゲベックの蓋を開けて、焦がしたキャラメルのかかっている一つを口に運ぶと、祖母の家、祖母の腰掛けていた籐(とう)の椅子、壁掛け時計、深い栗色をしている阪急電車、そして、そしてパッシュ(編注:「わたし」の愛犬)の姿が浮かぶ。

続いて「きれいな香り」については、「わたし」の祖母と神戸で会うシーン、49ページで描かれている。

梅の時期に訪れると、祖母は岡本梅林の梅の香りにわたしを手招いて、「きれいな香り」であるということを、やわらかな神戸弁でわたしに伝えた。

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