小説「寝子の坂から空」南田偵一
アイスコーヒーが、汗をかく。
僕は、やっと長い夢から醒めかけた思春期の淡い女子のように、目をこする。この一ヶ月、僕はずっと空気を吸い、生活をし、仕事をしていたのに、ただただ霞を食っていた。
「ストローがなくなったら、あたし、どうやって飲むの」
リコは、アイスコーヒーを目の前に、ストローの空いた袋をねじねじしながら、すっとストローで吸い取ったグラスの水を、そのねじねじに注ぐ。ねじねじは、身をよじりながら、生き返ったのか死んだのかわからないように、うす透明になっていく。
「猫を飼いましょうよ」
ねじねじは、テーブルの上で、くたっとなった。
猫を飼おうと提案するリコは、アイスコーヒーのグラスに口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らす。ああ、命がどんどん飲まれていく。君が飲んでいるのは、コーヒーに違いない。だけれども、それは、ストローという別の命を台無しにしたもんなんだよ。ラジオやテレビやネットから吐かれる言葉の数々は、霞となっていく。
「どんな猫がいいの」
「めちゃめちゃ懐かない猫」
リコは、ドラえもんは猫じゃない、と付け加えた。
いつもの坂道を、僕らは、ムーンウォークを踏むように、後ろ向きに上っていく。いつかずっこけ後頭部を打ち、そのまま死んでしまうことを、どこか僕らは望んでいる。そういう生き方というより、死に方が一番美しい、と、リコは思っているに違いない。
この坂の主が、坂の下の方から、のっそりと近寄ってくる。黒なのかサビなのか、もうなんだかわからないボサボサした毛色のこの猫を、リコが「ぬし」と名付けたのは、ここに越して、わずか三日後のことだった。
ぬしは、リコの黒いズボンの裾に身を寄せ、
「にゃお」
と、太い声を出す。
黄色い目は、微かに開いており、目薬を一滴でも垂らしてあげたら、シャキーンと音を立て、ぱっちり二重まぶたになりそう、と、前にリコは言っていた。そうしてやってもいいけれど、ぬしが望んでいないだろうし、それでメス猫にモテるとも限らない。それに、そもそもぬしはオスだかメスだかわからない。
「ミケちゃん、来るかな」
リコが密かにというか、僕に匂わせている本命は三毛猫で、体が小さく、とても臆病な、シャーシャーばっかり言っている猫だった。
たぶん、この三毛猫に会っていなければ、リコは猫を飼いたいなんぞ、吐かなかっただろう。それに、アイスコーヒーも、マイストローを買ってまで、ストローで飲み続けただろう。
「僕とリコは、もう年齢が嵩んだんだね」
リコは、ゾッとした顔をして僕を見返した。
足元のぬしは、相変わらず、リコのズボンに身をこすっている。
「あ、いた!」
リコは眼鏡をずらしたり、直したり、繰り返しながら、坂の下を指差す。
僕はその瞬間、ちらっと後ろを振り返った。坂の頂上まで、あと二十メートルくらいか。
「そうやって振り返っていると、おじいさんみたい。おじさん、通り越して」
リコは、反対に坂を下り、三毛猫に寄ろうとするが、いくらすり足で行こうと、三毛猫はリコの眼鏡が怖いのか、身を固くして、動こうとしない。むしろ、いつでも逃げるわよ、という顔をしている。
「ミケちゃーん、にゃーお、にゃーお」
リコは、カラオケでも絶対出さない高音を、三毛猫用に取っておく。本領を発揮するも、三毛猫は、坂道を駆け上がってくるどころか、やっぱり走って逃げてしまった。
「にゃお」
ぬしの声は、遂には僕にぶつけられる。ぬしはそのまま、坂の途上で、身を丸めて、寝子となる。
「ああ、行っちゃった」
そう吐いたあと、リコは僕を見つめた。正面から、リコと見つめ合うのは、いつ以来だろうか。
「ミケちゃん、追ってもいい? 追ったら、また何か変わると思うの」
「変わりたいの?」
「ストローも、もうなくなっちゃうんだよ。変わりたくなくても変わっちゃう」
リコは、両方のつま先をピンと空に向ける。
僕は、思わず、空を見上げる。
こんな瞬間を、僕は、人生で、あと何回迎えるんだろう。
正面を見たときには、もうリコの後ろ姿しかなかった。
「DayArt」の編集長自らが取材・体験し、執筆しています。