第1回「食って寝て本を読む日々」(山﨑修平)
某月某日
国書刊行会から2016〜17年に刊行された『後藤明生コレクション』を入手した。読了するのが勿体無いので、何かをし終わった後のご褒美として、少しずつ読んでいる。研究のあとに後藤明生を読むと、脳がほぐれてゆく気がするが、何か創作をしたあとに読むと、窘められるというのか、干渉するというのか、どうにも居心地が良く無い。DJという仕事は曲順を決めるが、そういえば本を読む順番にそこまで意識的であったことはこれまでなかった。
某月某日
電車に乗る際に、道中読むためにと蓮實重彦『言葉はどこからやってくるのか』(青土社)を鞄に仕舞っておく。けれど結局読まずに車窓ばかり眺めてしまう。新幹線に乗っても、地下鉄に乗っても、鞄に入れた本は読むことなく、車窓や車内の様子ばかりを愉しんでしまう。それなら、かさばる本を入れずに電車に乗ればいいのだが、それはそれで落ち着かない。然るのちに、御守りということに自分を言い聞かせているのだが。
某月某日
残り五日間も日数が残っていない月末〆切の論文が、一文字も書けていない。と告げると、友人は呆れるどころか感心していた。これは悪い癖で、何かを書くときに、いきなりパソコンのキーボードを打つのではなく、まずひたすら脳内で文章を組み立ててから臨むのである。正確に言うならば文章の前の段階、設計図のようなものをひたすら脳内で組み立てて納得がいったら、ようやくパソコンの前に座り、書き出し始める。パソコンをシーケンサーではなく、レコーダーとして使っているのだ。考えてみると、一つ上の世代は、テープレコーダーにレコーディングをするアナログ世代で、一つ下の世代は、DAW、つまりパソコンをレコーダーとして用いるデジタル世代だ。何度もやり直しがきくデジタルの方が、便利であるし、作業時間も短縮するだろう。文章も、脳内のような最もあやふやな記憶媒体に留めるのではなく、早い段階でアウトプットしてパソコンで書き出していけばいい。それは分かっている。分かっているのにやめられないというハナ肇とクレージキャッツ状態なのである。(「DayArt」27号掲載)
山﨑修平(やまざき・しゅうへい)
詩人。詩集に『ダンスする食う寝る』(第31回歴程新鋭賞)、『ロックンロールは死んだらしいよ』
Twitter@ShuheiYamazaki