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第3回「食って寝て本を読む日々」(山﨑修平)

暑い。こう暑いと、私の考えが私のものであるのか、疑いたくなる。これほど暑さで苛まれると自分という何かであることを放棄したい。

前回からなかなかの時間が経ったこともあるし、気持ちも新たに、型には嵌らず書いてゆきたい。と、ここまで書いて考えるのは、型についてだ。生活をしていると、というより生きていると一定の型というのができてしまう。この型、つまり生活ルーティーンのようなものを完全に無くしてしまうと、あまりにも非効率的な生き方を強いられる。朝、目覚める、喉が渇いている、渇いている喉を潤したい、そのためには水を飲むことにしよう、水を飲むには水道のところまで、或いは冷蔵庫に収められているミネラルウォーターのペットボトルを取りに行かないとならない、と一つ一つ進めてゆくときに、じっくりと腰を据えて何時間も思考するのではなく、ここまでのプロセスをものの数秒で片をつけてしまう。水は喉の渇きを得たら可及的速やかに飲まないと生きていけないし、喩えば車を運転しながら、「私が車を運転する理由」とか、「アクセルを踏むと動く、このことは何故か」等考えていたら、まともに運転はできない。本能的な衝動や渇望、社会生活を営むことを考えながら、どうすれば自分の思考をどうにか放棄しないで済むだろうか。いきなりアゼルバイジャンの市場に行き大きな魚を買い占める際に出逢った老商人の最後の願いであるロックバンドを結成するため銀座ヤマハ楽器のある日本への帰国途中に見つけた美しい滝で水浴びをしたい。というような突拍子もないことを私たちは幾度も思考する。夕食のメニューを考えながら、不意に浮かんだ「水墨画と光」という言葉が離れなくなり、意識が引っ張られながらもコロッケを作ることは、ままある。このことは、何も私が詩人だからということでも、詩というのは云々ということでもない。私たちの思考は常に散文的で、すなわち人間の持つ散文性というものを、どうやって定型に落とし込んでゆくべきなのかという思考実験なのである。定型というのは、何も定型詩のみにあるのではなく、映画でも絵画でもコンテンポラリーダンスにも、ある。何かと引き換えに定型に落とし込まれてゆくなかで、ここは赦せる、ここは譲れないという線引きをしておかなければ、極端に言えば、生きていることが受動的になってしまうと考える。私は、自分が生きていると実感するために、触れるもの、観るもの、感じるもの、口にするもの、歩く街、好きなもの、赦せないもの、手にしたいもの、飲みたいもの、齧りたいもの、すべて私の思考のなかで揺るぎないものを選択し続けたい。

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