第3回「食って寝て本を読む日々」(山﨑修平)
もう一つ、「離」と「脱」という言葉を最近ぼんやりと考えている。この「離」というのは、距離をとるということである。書くということを考えるとき、書くことに近づいてしまう。詩を書くときには、詩に近づいてしまう。しかしながらこれによって得られる詩は、上澄の部分、狭義の詩でしかない。詩を書くときは、詩から離れないといけない。「脱」も同じで、力を入れるということは、どこかで力を抜かないとならない。濃淡のあるダイナミクスのある絵を描くには、濃のみにフォーカスするのではなく、いかに淡さを淡さのままに描くのかだと思う。
ここまで書いてきたことは、ここ最近考えていることの現在進行形である。ちょうど四元康祐さんより二冊の詩集が届いたことも、この考えを深化させている要因である。贈り物はある日突然届くわけだけれど、この偶然が自分の今の状況や状態へ確実に作用する。偶然という必然性によって私が変容してゆく。『シ小説・鮸膠』(澪標)という詩集と、『ソングレイン』(左右社)という詩集である。四元さんとは、ドイツから帰国なさって大久保でのポエトリーリーディングにお誘いしていただいてから、特にお世話になっている。何を学ぶかとか、何を教わるかとかではなく、私の思考していることの触媒のように、響き合う瞬間が幾度もある。或いはもしかすると、詩というものは触媒であるのかもしれない。
最後に。「蛇と星」という慶應義塾大学の詩人による詩誌が素晴らしく、此処に紹介したかった。学び舎によって作風が異なるという時代ではないと思うし、それは或る意味属人的な読みにもなってしまうから、警戒しているのだけれど、少なくともこの慶應義塾大学に関係する詩人たちによる「蛇と星」には、通底する何かがある。一つには、互いに作品を相互鑑賞し、批評することによって作品のベクトルが整うということはあるだろうし、そもそも何をもって良い詩と思うのか、という価値観を構築してゆく上で、このような詩誌の形態は、非常に大きな意味を持つ。
型ということを考えてゆくうちに、型を構成してゆくなにかの話に変わっていった。「離」や「脱」ということ、触媒する機能、同空間という価値観、という話のなかで、混在してゆくなにか、名状しがたい何かをこれからも探してゆきたい。今回は、この辺りで。また次回、お会いしましょう。
(続)
山﨑修平(やまざき・しゅうへい)
1984年東京都生まれ、詩人・文芸評論家。2013年より短歌と詩を発表し始める。2016年に第1詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』(思潮社)を刊行、2020年に第2詩集『ダンスする食う寝る』(思潮社)を刊行し、第31回歴程新鋭賞を受賞。2022年12月、小説デビュー作『テーゲベックのきれいな香り』(河出書房新社)を刊行。
Twitter@ShuheiYamazaki